研究調査結果

この「研究調査結果」は主に2006年にベルギーのリューヴェン大学で発表した英語の研究論文の結果に基づいている。

The Origins of Banana-fibre Cloth in the Ryukyus, Japan. Leuven University Press. 2007年出版261-271頁)

本研究から得られた知見は、多くの視点から、パズルのピースの様に、互いに表裏一体となり密接に関連しているが、ここで「はじめに」の「本芭蕉布研究の目的」で掲げた研究疑問を、可能な限り、個別に扱いたい。


 本芭蕉布研究の第一の疑問は、琉球列島に見られる芭蕉布のルーツ(起源)に関する事である。この疑問は、原料となる「琉球糸芭蕉」(植物)の起源と、「芭蕉布織り」(織る技法)の起源という2つの部分がある。

 琉球糸芭蕉は、バショウ科バショウ属(以下「芭蕉類」)の大型多年草であり、その学名はMusa balbisiana var. liukiuensisである。芭蕉類の分布に関する21世紀の植物学的研究によると、琉球列島は、芭蕉類の自生地として認められている地域の境界内には位置していない。言い換えれば、琉球糸芭蕉(以下「糸芭蕉」)は、琉球列島の固有種ではない。本芭蕉布研究では、糸芭蕉の原種であるMusa balbisiana Colla(ムサ・バルビシアーナ・コラ)という野生種が「どこから」琉球列島に導入されたかを検証するために、先ず「南方」説という20世紀の通説を検討した。

 「南方」に最も近い琉球列島の与那国島や西表島の山間部に糸芭蕉が豊富に存在しているが、植物学的に、芭蕉類は海水による長い航海には耐えられず、台風や黒潮などの海流に乗って東南アジアから先島諸島に漂着したとしても、生き残る可能性はないと思われる。文献調査によると、15世紀半ばに八重山に漂流した朝鮮人の見聞録に芭蕉類の植物の存在は記録されていない。記録が残っていないので当時に無かったとは言えないが、17世紀後半から18世紀にかけての「八重山島農務帳」などの古文書から、当時の琉球王府が八重山の人々に糸芭蕉の栽培を強く推奨してその栽培し方も教えていた事がわかる。これらの史料から、当時はまだ八重山諸島に糸芭蕉が普及していなかった事が推察される。又、八重山での現地調査の結果、少なくとも21世紀初頭まで八重山で使われていた芭蕉糸の糸づくりの道具や技術は、苧麻と同様であった事が判明した。このことは、八重山では糸芭蕉よりも苧麻の方が古くから織物の原料として使用されていた事を証明する。以上の植物学的見地、文献学的見地と現地調査から、本研究では糸芭蕉は,

琉球王国以前の八重山諸島にはまだおらず、15世紀以降、人間により持ち込まれた事を示すと考えている。

中国南部及びフィリピンなどの東南アジアの地域は芭蕉類の植物の分布地とされているため、ムサ・バルビシアーナはどちらの地域から持ち込まれたのかが問題となる。糸芭蕉がある地域から人間に持ち込まれたとすれば、その繊維を採り出し、芭蕉布に織る技法も、同じ地域から同じ時期に導入された可能性が高い。「李朝実録」(1546)や「歴代宝案」(1587)などは、琉球の芭蕉布の現存する最古の記録となるが、それらの史料から、16世紀中頃、琉球列島の芭蕉布織りが技術的に既に進んでいたと推察される。フィリピンやインドネシアなどの東南アジアや、琉球列島ともっと近い台湾に見られる芭蕉類の繊維で織られた布のことを記した16・17世紀の外国語の文献史料を検証すると、それらの地域で使われていた技法や道具などは、現在でもそうであるが、琉球列島の芭蕉布織りとはかなり異なるものである事がわかる。又、それらの地域にはMusa balbisianaがあっても、織物には芭蕉類の別の植物が使われていた事も同史料からわかる。それに対し、21世紀初頭まで芭蕉布研究にほとんど研究されていなかった中国史料からは、広西から福建までの中国南部の地域には「芭蕉の国」と呼ばれていたほど芭蕉類の植物が豊富であり、少なくとも2・3世紀頃から芭蕉布織りの文化が存在していた事が明確になっている。又、15・16世紀頃、特に福建で「蕉布」が盛んに織られていた。歴史学者たちの研究からは、琉球人は東南アジア諸国よりも、中国南部との交流がはるかに密接で長い。琉球使節の福建での長期滞在、何度も琉球(那覇)と福建の間往復する商人たち、中国南部出身の人々の琉球への移住生活など、500年以上にわたる中国南部と琉球との密接な関係の事から、この期間、中国南部の衣食住に関する多くの習慣が琉球に導入されたと考え難くない。

前述した中国史料からは、中国南部の人々が糸作りのとき、灰を用い芭蕉類の植物から繊維を採り出したという記述がある。中国では、紀元前から絹糸の製造工程でアルカリ性の灰汁を使用していたと思われている。琉球列島でも、糸芭蕉の繊維を採り出すために木灰汁が使われているが、東南アジアの諸国では、16世紀~20世紀初期の外国語の文献資料には灰の使用は見られない。東南アジアでは、芭蕉類の植物の偽茎から生の状態で採取する習慣しかなかったようである。19世紀の「南島雑話」などによると、当時の奄美大島には、生の糸芭蕉から非常に細い繊維を取り出す技術を持った人がいたが、これは特に器用な人しかできなため、その様な人は非常に少なかったとある。

古代の中国南部で織物に使われていた様々な芭蕉類の植物を植物学的に同定するのは不可能な事である。しかし、一次資料と二次資料をもとに、芭蕉類の植物、及びその植物の繊維で作られた上質な芭蕉布の両方に与えられていた「蕉葛」という4世紀~17世紀の中国史料に見られる漢語が、長い間、織物に最も適した種類を指していたと思われる。中国の冊封使の徐葆光も『中山傳信録』(1721年)では、琉球の袖の広い着物、つまり首里宮廷の最高階級者に着用されていたものの多くは「蕉布蕉葛」で作られていると記述した。更に、中国の17世紀の史料では、新しく「布蕉」や「衣蕉」という芭蕉類の植物の名称が登場する。この名称からは織物専用に使われていた繊維が採れる芭蕉類の植物であった事がうかがえる。21世紀の最近の植物学的研究論文では、野生種のムサ・バルビシアーナの自生分布域は中国南西部の雲南省の一部(南側)とベトナム北部の一部(西側)を含む「インド・ビルマの北部」にあるが、中国南部に位置する広西省、広東省と福建省でも栽培種のムサ・バルビシアーナの個体群が発見されている。本研究では、仮説として、この「布蕉」や「衣蕉」という芭蕉類の植物は、中国南部で栽培されていたムサ・バルビシアーナであり、琉球列島に見られる糸芭蕉の祖先である可能性が十分にあると思われる。

上記した諸論点は、池宮正治氏が1998年に初めて発表した、芭蕉布の生産技術が中国南部から福建を経由して琉球に伝わったという見解を支持するものであり、琉球の糸芭蕉と芭蕉布の起源が「南方」(東南アジア)にあるとする伊波普猷らの定説を覆すものである。20世紀初頭にフィリピンや台湾のアバカ繊維が大量に日本に輸入された事は、現代の研究者を混乱させ、誤解を招いたのではないかと思われる。一方、「歴代宝案」などの一次資料を研究し、琉球の歴史的背景や事情を誰よりも理解していた伊波氏は、日本を沖縄の祖国と考えたい同時代の他の沖縄知識人と同様に、社会的・政治的な理由から中国への言及を避け、本土の日本人が最も受け入れやすい選択肢として「南方」を選んだのではなかろうか。


「何時」糸芭蕉と芭蕉布織りの技法が中国南部から伝わったのかという問題は、芭蕉布織りが「どのように」「なぜ」琉球列島に広まったのかという本芭蕉布研究の第二の疑問点と密接に関係していると考える。

14世紀以前の琉球を語る最古の歌謡集「おもろさうし」には芭蕉布に関する記述が見られない。『琉球国由来記』などの18世紀の最初の琉球史にある芭蕉布の項とその中に登場する「生熟夏布」という表現を分析した結果、14世紀末の中国への最初の進貢物の中には布、まして芭蕉布はまだ含まれていなかった事が判る。従って、13世紀・14世紀には琉球で既に芭蕉布が織られていたという通説の根拠も特にない事になっている。琉球の芭蕉布織りに関する最古の現存する記録は、前述した1546年の『李朝実録』(明宗大王実録)にある。当時の芭蕉布は琉球王宮と首里城の周辺で着用されていたものの様なので、16世紀半ばの時点ではもう比較的高級な芭蕉布が織られていた事は推察できる。又、一次資料である『歴代宝案』では、芭蕉布が初めて明への進貢物として登場するのは、1587年である。その前、14世紀末から15世紀にかけて、中国南部の商人などが琉球へやってきた。彼らは、海上交易や、琉球から中国への進貢業務等を指導するために、福建と琉球を行き来していた者であったとされているが、その一部が本拠を琉球(主に那覇)におき、その家族が那覇郊外の「久米村」で移住生活を送っていたと思われている。これらの人々は当初、自分たちの生活風習を維持する事で、中国南部と同様な亜熱帯気候に恵まれている琉球で、中国南部での盛んな芭蕉布織りを続けようとしていたのは想像しにくくない。つまり、自用の芭蕉布を織るために、糸芭蕉の苗や種子を最初に琉球に持ち込んだのは琉球へ移住した「久米村人」であった可能性が十分にあると思われる。又、中国南部で長期間の滞在を経験した琉球の官生、副官生や商人等々も、社会交流・文化交流の結果、芭蕉布文化を琉球へ伝えたとも考えられる。以上の様な理由から、この芭蕉布研究では、13世紀には琉球に芭蕉布織りがまだ行われなかったと仮定し、仮説として、比較的進んでいる芭蕉布織りの技法が琉球へ伝わったのは主に15世紀であり、そのため、琉球での芭蕉布織りの発展は比較的急速であったとしている。

本芭蕉布研究では、薩摩の琉球侵攻以前、すなわち15世紀から16世紀にかけて、琉球で織られた芭蕉布は、主に首里宮廷の内部使用及び、中国への進貢物として使われていたのではないかと推測している。中国南部では、芭蕉布織りは少なくとも紀元4世紀まで遡り、元代(13~14世紀)まで、芭蕉布は支配階級や中国北部の朝廷への「毎年常貢」にもなっていた地域もある。17世紀以降、芭蕉布織りは中国南部で次第に衰え、20世紀初期に僅かの少数民族にしか作り続けられていなかったようである。中国南部で芭蕉布が徐々に衰退していった理由としては、長い間禁止されていた養蚕や絹織物がこの地域に導入された事や、綿織りが発達した事などが関係しているのではないかと考えられるが、この問題は本研究の範囲を超えており、さらなる調査が必要である。上記の理由のため、本研究は、琉球列島の芭蕉布織りは、中国への進貢物を生産するために最初に首里王宮やその周辺で発展したと推測し、池宮氏の見解(1998年)に賛成するものである。更に言えば、芭蕉布織りの技法が琉球へ伝えられた理由は、中国での芭蕉布の需要に応えるためだったのかもしれないが、これについてもさらなる検討が必要である。

『歴代宝案』などに見られる、最初の琉球と明の間の外交文書を漢文(中国語)で作成していたのは「久米村の人々」であると思われている。語彙論的観点から見ると、彼らは、1489年の文書に初めて「土夏布」(苧麻の織物)、1587年に初めて「蕉布」、1589年に「芭蕉布」が中国への進貢物として記録するが、初めて「蕉布」を記録するのは1623年であった。つまり、中国南部出身の「久米村の人々」からすれば、夏布は当初から琉球「土産」であったが、芭蕉布も琉球独自の「土産」と見なすのは、17世紀初頭までかかった。中国の『明実録』を検討すると、明代(1368-1644)の皇帝たちは、琉球産の布には全く興味を示さず、初期の外交物は琉球の馬や硫黄のみ、後ほどそれに近隣諸国の品物が加えられた事である。それに対し、清代(1644-1912)の皇帝たちや同代の福建の商人たちが芭蕉布を評価していた事は一次資料から明確になっている。前述した様に、中国側と琉球側の史料から、芭蕉布は、初めて中国への進貢物として贈られたのは通説の14世紀末よりも2世紀後の16世紀後半であり、進貢物として定着したのは17世紀からである。


 本芭蕉布研究の第二の疑問は、歴史を通じての芭蕉布の意義についてである。琉球列島には古くから苧麻という、優れた織物素材があったのに、なぜ芭蕉布の開発が必要であったのか。芭蕉布はどの様にして琉球列島に広まったのか。琉球列島における芭蕉布の歴史を大きく4つの時代に分けて辿る事で、これらの疑問に具体的に答えていきたい。時代の区分は、政治的・社会的影響などにより、芭蕉布の役割や意義が前の時代と比べて大きく変遷したという基準に基づき、各時代には特徴点がある。


 芭蕉布の歴史の第1期は、15世紀から16世紀にわたり、琉球糸芭蕉の原種であるムサ・バルビシアーナと芭蕉布を織る技法が琉球に導入された期間である。

先ず、糸芭蕉はおそらく中国出身の「久米村の人々」などにより、糸芭蕉が中国の福建経由で琉球に持ち込まれ、那覇周辺に植えられた。自分たちの生活や習慣を守るために、この中国南部の人たちが琉球で芭蕉布を織り身につけ、その芭蕉布が琉球人に注目された。その後、徐々に琉球王府との政治的なつながりを持つ様になった彼らの影響により、芭蕉布織りは首里王宮にも広まり、首里城周辺でも行われる様になった。すでに16世紀後半には、芭蕉布は苧布のレベルに達し、明への進貢物にもなっていた。琉球王府が任命したノロ(女神)たちにより、芭蕉布が奄美諸島に伝わったのもこの頃ではなかろうか。芭蕉布の製作過程を詠んでいる奄美の呪詞「バシャナガレ」などでは、「天来」が糸芭蕉の起源とされているが、当時の奄美にとっては「遠い琉球王国」を意味していたのではなかろうか。


 芭蕉布の歴史の第2期は、17世紀から18世紀末頃にわたり、琉球独自の「土蕉布」が生まれた時期である。『琉球国由来記』などの琉球初期の史書から、17世紀中頃には、王子や按司の朝衣が苧麻で出来た上布だけではなく、上級な芭蕉布でもあった事がわかる。この様な、奄美大島の博物館やドイツの琉球宮廷衣装コレクションに見られる極上の芭蕉布は、琉球で絹に代わるものとして開発されたものと思われる。これは、17世紀初頭の薩摩による琉球侵攻や明朝の衰退を原因として、中国から高級絹類の布の入手が困難になっていた事と関係があると思われる。さらに、薩摩の役人は芭蕉布をあまり好まず、薩摩上布として本土で販売できる先島の上布(苧麻布)を好んでいた。この様に、絹に勝るとも劣らない上級な芭蕉布は、琉球王室や王宮の役人たちの間で威信の象徴となっていた。


 芭蕉布の歴史の第3期は、18世紀から20世紀初期にわたり、芭蕉布織りが寧ろ琉球列島の各島に広がり、芭蕉布は庶民にも織られるようになった時期である。 第3期の初めは、琉球政府が17世紀末から18世紀の間、先島諸島での糸芭蕉の栽培と芭蕉布織りを強く奨励していた古文書での記録があるため、実は第2期の終わりと重なっている。その背景には、様々な理由が考えられる。一番の理由は、前述した様に、薩摩の琉球侵攻後、優れた苧麻布である「上布」が薩摩に特に望まれ、先島諸島では、上布などが琉球王府への主要な納税品となり、その大量が薩摩へ渡っていた。琉球王府は恐らく、島民の自家用布の繊維不足を避けるため、その島々での糸芭蕉の栽培や芭蕉布織りを薦めたと思われる。また、先島諸島内用で芭蕉紙が使われたので、糸芭蕉の栽培は芭蕉紙作りにも有用であったであろう。糸芭蕉は、苧麻と違い比較的簡単に育てられ台風にも強いので、野菜などの小作のための防風林としての役割も果たしていたと言われている。この様に、芭蕉布織りは、18世紀と19世紀には、次第に首里城周辺から琉球列島の隅々まで広く伝わり、糸芭蕉は琉球列島のどの社会階級もの主要な織物繊維となっていた。

しかし、19世紀における世界産業革命により、機械製の糸が徐々に琉球列島にも導入され、その人気が早くも高まった。又、1872年から1879年にかけた「琉球処分」により、琉球王国時代に王宮で使用されていた、絹の様な極上な芭蕉布などの着用は禁止され、故にその生産も停止された。1884年、明治政府がドイツ領事館に大量の琉球宮廷衣装を売り高級な芭蕉布とともに処分した。もう一つは、19世紀末から20世紀初頭にかけて日本政府に一時的に課された織物税で、沖縄県内では庶民の自家用の芭蕉布作りさえも急速に減少する原因となった。


 芭蕉布の歴史の第4期は、第二次世界大戦の終わりから現在に渡り、芭蕉布は琉球列島の島民の日常必需品から「沖縄」を象徴する嗜好品へと変遷した時期である。現地調査の結果、八重山の小浜島や奄美の与論島のような小さな島々では、第二次世界大戦の直接的な影響はあまり受けなかったものの、糸芭蕉が自給自足の生活に他の繊維よりも容易に手に入る唯一の織物素材であったため、終戦直後も一時的に芭蕉布を織り続けていた。沖縄本島、特に中南部では、沖縄戦で全壊した町の復興が優先となり、男女ともに生活基盤の再建と関連する仕事を行う事になった。また、終戦直後、沖縄本島の南部にもいたアメリカ軍とその家族のライフスタイルの影響や、輸入による安価な布や衣服も、沖縄の人々の生活振りを大きく変えていったのであろう。その結果、特にこれらの地域では、芭蕉布作りに必要な知識を持っていた人が急激に減少し、現在でもそのままである。それに対し、沖縄本島北部の大宜味村喜如嘉では、1950年代に入ると、平良敏子氏は芭蕉布の復活に本格的に取り組む様になる。戦前、祖父や父が喜如嘉で芭蕉布の保存に尽力し、民芸運動の思想家であった柳宗悦著の『芭蕉布物語』(1943年)などは、芭蕉布の運命に大きな影響を与えたと考えられる。沖縄復帰から2年後の1974年、日本の文化庁が「喜如嘉の芭蕉布」を織る技法を日本の「重要無形文化財」、平良敏子氏を「喜如嘉の芭蕉布保存会」の代表者に指定した。これにより、芭蕉布の県外への普及が進み、その商品価値が徐々に高まった。又、「芭蕉布は戦前では沖縄各地で織られているが、現在では喜如嘉のみとなっている」という「喜如嘉の芭蕉布保存会」、「喜如嘉芭蕉布事業協同組合」やマスメディアによるPR活動の結果、芭蕉布の一般的なイメージは、今世紀初頭には既に、「山原」「芭蕉布の里・大宜味村」「喜如嘉」などの地名や、2000年に人間国宝に認定された平良敏子氏の名前と強く結びついていた。もう一つの(間接的な)影響は、歴史上、「沖縄各地」というよりも、琉球列島各地で織られていた芭蕉布は現在では、もっぱら「沖縄」の象徴となり、奄美諸島の過去と現在の芭蕉布は一般的には認識されていない。


 本芭蕉布研究の第三の疑問は、芭蕉布織りの現状及び現在の芭蕉布の役割についてである。

今日でも芭蕉布といえば、「沖縄」「山原」「大宜味村」「喜如嘉」の独自の織物というイメージが強い。「喜如嘉の芭蕉布」は「国の重要無形文化財」と「伝統的工芸品」に指定されたため、その作り方には厳しい規制がある。「大宜味村立芭蕉布会館」(1986年設立)は伝統を受け継いでいる人たちの共同作業や後継者育成の場として設立されているが、現在、喜如嘉芭蕉布事業協同組合の技術者の高齢化と後継者不足により、年間製作反数は毎年減少しているのが「喜如嘉の芭蕉布」の現状である。

現在、個人で芭蕉布を織っている人や、自分の芭蕉布工房をもっている人の多くは、喜如嘉にある大宜味村立芭蕉布会館で修行を受けた人たち(平良敏子先生の弟子か孫弟子)に当たる。しかし、原料の栽培からすべて手作業で行われる芭蕉布は、作り手の数が限られているため、高価な「希少品」であり、観光客向けの小物を除けば、販売先は主に日本本土である。沖縄本島の他の地域や、八重山や奄美の離島では、芭蕉布の織り手が伝統的な手法を捨て、繊維をより自由に使い、着物や帯などの伝統的な製品だけでなく、芭蕉紙や帽子、草履等々のアートやファッションアイテムを作っている。

芭蕉の繊維を使った製品は、芭蕉布に限らず、どれも高価であり、使い捨ての現代社会では簡単には売れないであろう。しかし、現在のPRやマーケティングの手法をうまく利用し、買い手が芭蕉布や糸芭蕉の良さを知り、高い値段を払ってもいいと思う様に出来ている。今日の芭蕉布のPRでは、今までの「100%手作り」という伝統的な作り方の要素に加え、「100%天然素材」という、他の素材に比べてエコロジカルフットプリント(環境負荷)の少ない素材として糸芭蕉の良さをアピールする事が一つの重要な発想となっている。