芭蕉布の歴史的背景

本芭蕉布研究の原本となる英論は、ベルギーのリューヴェン大学へ提出した、主に外国人(非日本人)向けのものであったため、歴史的背景を紹介する必要があった。同時に、原文では、琉球・沖縄の代表的な史料をその歴史的文脈の中で紹介したが、本サイトではそれらを本文、あるいはwebリンクで紹介する。

インターネットで、琉球・沖縄の歴史を簡潔に解説するページが数多くある。その中から2つ紹介したい。

✾ 沖縄県立総合教育センターのサイト「琉球文化アーカイブ」による「沖縄の歴史

✾ ウィキペディアのページ「沖縄県の歴史

琉球・沖縄の歴史区分 & 重要事項

先史時代(3世紀~11世紀)

芭蕉布と関連すると思われる資料の保存がない

古琉球(12世紀~16世紀)

➤1392年、公式に明帝国により琉球へ派遣されたとされている閩人三十六姓が那覇の久米村(現・那覇市)に定住する。この中国南部の福建(現・福建省)からやってきた「久米村人」に加え、それ以前にも非公式に(民間商業を目的にして)琉球と中国を行き来していた「渡来人」が多数いたと思われている。

➤1429年頃、三山統一により琉球王国の成立

琉球は対外的には独立した王国として存在していたが、外交的に貿易上の理由から、1866年までに24回ほど明及び清の冊封を受けた。中国の冊封使が新しい琉球王に敬意を表すために来琉する。彼らの琉球での滞在期間は4〜8ヶ月とされている。琉球王国は、中国皇帝に忠誠を誓うために、何度も中国へ土産品などを進貢する。その際、約100人の琉球人が一緒に中国南部に行き、福建に数ヶ月間滞在することになる。琉球は、進貢の代わりに、中国皇帝から進貢物の2倍以上の品物(絹類など)を貰う。

➤1534年に尚清王の冊封使として来琉した陳侃が那覇の天使館に4ヵ月滞在し、その間に見聞体験したことを『使琉球録』にまとめた。それが最初の冊封使録である。

近世琉球(1609年~1879年)

➤1609年、薩摩藩島津氏の琉球侵入

➤1637年からは、薩摩支配下におかれた琉球王国は、「掟十五条」による重税である「人頭税」が制度化され、農作物の収穫が少ない年でも納めなければならず宮古・八重山島民は苦しめられた。男は粟、女は貢納布(上布・中布・下布)及び「御絵図帳」を基にした琉球絣による御用布(御召御用布・大和御用布)を納めることが定められた。

➤1650年、琉球王国初めての正史である『中山世鑑』が書かれた。全6巻があり、和文体である。

➤1703年、琉球王府が旧記座を設立し、1713年に体系的な最初の地誌である『琉球国由来記』が国王上覧をもって完了された。その後、『琉球国旧記』(1731年)や『球陽』(1745年)も編纂された。

➤1721年、中国の徐葆光が編纂した『中山傳信録』は、前年に清の外交使節として訪れた琉球の見聞を、皇帝への報告書としてまとめたものである。18世紀の琉球を細かく描いているので、重要な研究資料として知られる。

➤1734年、三司官であった蔡温が初めて「農務帳」を布達した。耕地管理・年間作業次第など細かな労働過程に立ち入った農事指導がなされている点に特徴がある。

➤1768年、初めて八重山限定版の「農務帳」が与世山親方によって出された。その後,翁長親方(1857年)、富川親方(1874年)による改訂がなされた。

➤1771年、八重山では巨大な地震と明和の大津波とよばれる大津波が発生した。死者9400人あまり、住民の3分の1が死亡した。

➤1850年から、薩摩藩の上級藩士だった名越左源太は1855年に薩摩に帰還するまでの5年間、奄美大島で動植物や農耕儀礼、冠婚葬祭から伝説に至るまで島の風土をつぶさに観察し、詳細な図入りの地誌をしたためた。現在、彼が著した奄美大島の地誌を総称して『南島雑話』と呼ぶ。幕末期の奄美大島における第一級の民俗誌として評価されている。

近代沖縄(1879年~1945年)

➤1872年、廃藩置県の翌年、琉球王国は「琉球藩」となり、琉球国王・尚泰は、明治政府により「琉球藩王」とされた。(第一次「琉球処分」とも云う)

➤1879年、明治政府は沖縄県を設置し、沖縄諸島を日本領とする。(第二次「琉球処分」)

➤1899年、「沖縄県土地整理法」に基づき、地籍整備・土地整理事業が実施された。同事業は、宮古・八重山では1902年に、沖縄本島及びその他の離島においては1903年に完了した。

➤1903年、帝国議会は人頭税廃止を決めた。

➤1910年、沖縄県立図書館が開館し、伊波普猷が初代館長となる。

➤1939年、日本民藝館同人は柳宗悦を団長として沖縄における民芸の調査のために9人のメンバーを派遣した。この調査は沖縄の文化が再発見されるきっかけとなる重要な出来事だった。この9人のメンバーの中に田中俊雄がいた。田中はその直後、不慮の事故で死亡したが、1976年に出版される『沖縄織物の研究』の原稿を残していた。

➤1942年、1920年代に民芸運動を起こした思想家である柳宗悦が『芭蕉布物語』を出す。「今どきこんな美しい布はめったにないのです」という言葉で始まる。

現代沖縄(1945年~現在)

➤1945年、戦時中破壊を免れた喜如嘉では、早くも米軍の命令により共同作業の一環として芭蕉布の生産が再開される。

➤1946年、戦前喜如嘉区長であった平良真次の娘・敏子は、戦争中「女子挺身隊」の一員として岡山県倉敷市で働いていたが、戦後、倉敷紡績北方工場に就職する。ここで彼女を始めとする喜如嘉出身者4名は、大原総一郎社長の勧めで織りや染めの基本を学ぶ。柳宗悦の民藝運動に深い影響を受け、帰郷した。喜如嘉に帰ってきた敏子は芭蕉布復興を決意し、戦争未亡人らに生産を呼びかける。

➤1974年、大宜味村「喜如嘉の芭蕉布」は文化財保護法に基づいて重要無形文化財として国指定される。

➤1976年、田中俊雄と田中玲子の『沖縄織物の研究』が出版される。

➤2000年、平良敏子は国指定重要無形文化財「芭蕉布」保持者(人間国宝)の認定を受ける。